川崎富作先生を偲んで

土屋恵司
Keiji Tsuchiya

日本赤十字社医療センター 周産母子・小児センター顧問
日本川崎病学会 総務
日本川崎病学会 名誉会員
日本川崎病研究センター 理事

Japanese Red Cross Medical Center
Advisor

川崎富作先生、謹んでご冥福をお祈り申し上げますと共に、先生との思い出を書かせていただき追悼とさせていただきます。

私は1980年大学を卒業すると同時に川崎先生が小児科部長を務めていらした日本赤十字社医療センター小児科に研修医として勤務しました。医師としてよちよち歩きどころか這い這いもままならず首も座らぬうちから川崎先生に育てていただいたことになります。川崎病の原著論文が出された1967年から13年たった当時の川崎先生と川崎病を取り巻く状況は、川崎病に心合併症があることがわかり、厚生省研究班が設立され、海外でも新しい疾患概念であることが認識されKawasaki diseaseと呼称されるようになり(日赤では当時も、急性熱性皮膚粘膜リンパ節症候群MCLSと言っていましたが)、徐々に患者さんが増えるどころか、前年には第1回目の流行があり病棟内は川崎病の患者さんであふれ、全国的には1%を超える高い死亡率などから社会問題化した時期でありました。1980年9月にはバルセロナでの国際小児科学会学術集会で川崎病のシンポジウムが開かれ、川崎先生は座長として渡欧され、翌年には米国横断川崎病講演旅行に出られ国内外で引っ張りだこの状態でした。川崎先生は外来や病棟で患者さんや親御さんとお話になるときは、いつもニコニコされ優しいお顔で接していらっしゃいましたし、講演などでは海外でも壇上でウィットに富んだ笑いを誘う話をしたかと思えば、ニコッと破顔しケン玉を取り出し妙技を披露するといった塩梅でした。病棟回診の時は患者さんの発疹の様子や爪下の皮膚落屑の様子などの観察はそれこそ舐めるようにご覧になり所見を確認し、若い医師に医学的な問題について話をする時や、川崎病が新しい疾患単位として認められるまでの話をする時は眼光鋭く厳しいお顔をされていました。川崎先生が揮毫される“医療は暖かく医学は厳しく”の通りであったと思います。

先日、日本川崎病研究センター設立時に川崎先生ご自身がお書きになった文章を初めて見せていただきました。そこには研究センター設立の目的が書かれており、川崎病の原因を明らかにすること、原因療法を開拓すること、補助診断法を確立すること、予防ワクチンによる予防法を完成させることを目指す。とあり最後に、

夢とロマンを求めて。

とありました。夢とロマン、川崎先生らしい。これが川崎先生の夢だったんですね。晩年、大変穏やかにお過ごしになっていた川崎先生のお心の中は如何であったか。一日も早く、先生の夢が達成できましたよ、と報告できるよう頑張ります。

先生、有難うございました。ご冥福をお祈り申し上げます。 合 掌

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