恩師 川崎富作先生を偲んで 追悼と感謝

今田義夫
Yoshio Imada

日本川崎病研究センター 理事長
日本川崎病学会 名誉会員

90歳を過ぎてからも、とてもお元気で、日本川崎病学会をはじめ学会出席や講演、そして日本川崎病研究センターの理事長としてお元気にお勤めになっていた先生が、2年前の夏に、急に体調を崩され、急遽入院され、以降入退院を繰り返されるも、安定した闘病生活を続けてこられましたが、6月5日ご逝去されました。

お元気な時のお顔を思い出すと、ご指導を受けるようになって、45年超になりますが、様々な出来事が走馬灯のごとく目に浮かび、今もって受け入れがたい気持ちになります。

川崎先生は、皆さんご存知かと思いますが、「医療は暖かく、医学は厳しく」をモットーとされ、何時も「患者さんにやさしく、自分に厳しく」を実践されていました。

また、しばしば、臨床は一に体力、二に気力、三、四がなくて、五に学力と話されていたのを懐かしく思い出します。体力には人並みの自信があり、学力には自信のない私には、聞くたびに何故か「ホッ」としたことを想い出します。

ここで、川崎先生を偲ぶに当たり、先生のプロフィールを改めてご紹介したいと思います。

先生は大正14年(1925年)浅草生まれの下町っ子で、昭和23年(1948年)千葉医大専門部卒、昭和25年(1950年)に日赤中央病院(現 日赤医療センター)小児科入局、そして昭和36年(1961年)、運命の川崎病の第1例を経験され、その後の症例50例を詳細に分析し、昭和42年(1967年)アレルギー誌に原著「指趾の特異的落屑を伴う小児の急性熱性皮膚粘膜淋巴腺症候群」を発表されました。このやたら長い病名は当時の小児科部長の神前章雄先生が新しい症候群であることの特徴をまず強調しようとの思いであったと後に述べておられます。

その後、昭和54年には『ネルソンの小児科学書』に独立した疾患として記載され、文字通り世界が川崎病を認めた瞬間で当時の先生の笑顔が忘れられません。

平成2年には日赤を定年退職されましたが、川崎病、特にその原因究明に対する意欲は失われず、同年、後に現在の日本川崎病研究センターとなる川崎病研究情報センターを設立され、日本川崎病学会や親の会との連携を深め、相談業務や疫学研究、海外との連携、研究者への助成など川崎病原因究明に向けて多くの業績を残されました。

この間、第1回小児科学会賞をはじめ、数々の受賞をされたのは皆様ご承知と思います。

残念ながら、川崎先生がお元気なうちの原因究明はなりませんでしたが、臨床をはじめ、多くの研究者が目的を一にして努力し、天国の川崎先生に原因究明のご報告ができる日が近いことを信じます。

川崎先生に心より感謝申し上げるとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。

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